政府は役人に対し、外交上あるいは外国人との交際上の理由から洋食を奨励した。例えば海軍は上野精養軒で食事をすることを奨励し、月末に精養軒への支払いが少ない士官に対して注意されることもあったという。また、遅くとも1877年(明治10年)までには宮中の正式料理は西洋料理となった。この頃には東京の牛肉屋は558軒にまでなっている。1886年(明治19年)の東京横浜毎日新聞には、海軍の高木兼寛が洋食を嫌う日本女性相手に毎月3回の洋食会を開くことを決めた旨が掲載されている。
山間部では牛肉食は広まらなかったが、元々獣肉食に対する嫌悪感は少なく、1873年(明治6年)に刊行された飛騨地方の地誌『斐太後風土記』にはシカ、イノシシ、カモシカ、クマなどが食べられていた旨書かれている。ただしその総量は鳥類を合わせても魚類の6分の1程度であった。
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明治中期になると、家庭でも西洋料理が作られるようになった。1895年(明治28年)の『時事新報』には「この牛の煮たのは変なにおいがするね」「ネギが臭くてたまりませんから、香水をふりっけましたっけ」との新婚家庭の笑い話が掲載されている。1903年(明治36年)の『婦女雑誌』には米津風月堂主人による「牛肉の蒲鉾」などの料理が掲載されている。また1904年(明治37年)の『家庭雑誌』にはアメリカで料理を学んだこともある大石誠之助が「和洋折衷料理」として濃い目の味噌汁にカレー粉と牛肉を入れた「カレーの味噌汁」などを紹介している。