2009年07月01日

スターリンによるマルクス主義の修正

1924年、ソ連でレーニンに代わって指導者となったスターリンは、マルクス、エンゲルスからレーニンへと受け継がれた思想をソ連の現実に合わせる形で修正した(スターリニズム)。

マルクスやレーニンにとっては、共産主義革命とは世界革命であった。後進国の革命は先進国の革命と結びつくことによってのみ共産主義へ到達できるものとされていた。しかしスターリンは、1924年に発表された「十月革命とロシア共産主義者の戦術」の中で、ソ連一国だけでも社会主義を実現することが可能だとする一国社会主義論を主張した。そして、1936年のスターリン憲法制定時に、ソ連において社会主義は実現されたと宣言した。
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農業集団化を強引に進め、農民の抵抗が激しくなると、スターリンは1930年に、「共産主義が実現するにつれて国家権力は死滅へと向かう」というマルクス以来の国家死滅論を事実上否定し、「共産主義へ向かえば向かうほどブルジョアジーの抵抗が激しくなるので国家権力を最大限に強化しなければならない」とした。

第二次世界大戦にあたっては、「労働者は祖国を持たない」という『共産党宣言』以来の国際主義を放棄し、ロシア人の愛国心に訴えかけて戦争を遂行した。ナチス・ドイツに勝利した後の1945年5月、赤軍指揮官を集めた祝宴の中でスターリンは、「私は、なによりもまずロシア民族の健康のために乾杯する。それは、ロシアの民族が、ソヴィエト同盟(連邦)を構成するすべての民族のなかで、もっともすぐれた民族であるからである」と演説した。

2009年06月13日

ElGamal暗号(エルガマルあんごう,ElGamal Encryption)

ElGamal暗号(エルガマルあんごう,ElGamal Encryption)とは、位数が大きな群の離散対数問題が困難であることを安全性の根拠とした公開鍵暗号の一つである。1984年Taher Elgamalが発表した。

Diffie-Hellman鍵共有方式で共有した乱数を使ってワンタイムパッド(OTP)を行うと暗号通信ができる。ElGamal暗号は、これを利用してDiffie-Hellman鍵共有方式を暗号方式として利用できるように変形したものである。
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ElGamal暗号は暗号(Cipher)であるが、これとは別にデジタル署名(Digital signature)に応用することができるElGamal署名も発表されている。

上で"離散対数問題が困難であることを基にした"と書いたがこれは正確な表現では無い。 実際には、DLP仮定ではなく、Computational Diffie-Hellman仮定(CDH仮定)およびDecisional Diffie-Hellman仮定(DDH仮定)を基にしている。 ElGamal暗号が選択平文攻撃に対して完全解読できないということ(OW-CPAであるということ)と、CDH仮定とが同値である。 また、ElGamal暗号が選択平文攻撃のもとIndistinguishabillityをもつということ(IND-CPAであるということ)と、DDH仮定とが同値である。

ElGamal暗号は、選択暗号文攻撃に対しては安全ではない。平文mに対応する(c1,c2)から、2mに対応する暗号文(c1,2c2)を作成することができるからである。

2009年06月08日

ブッダとは歴史上にあらわれた釈迦だけに限らず

ブッダとは歴史上にあらわれた釈迦だけに限らず、過去にもあらわれたことがあるし未来にもあらわれるだろうとの考えはすでに大乗以前から出てきていたが、大乗仏教ではこれまでに無数の菩薩たちが成道し、娑婆世界とは時空間を別にしたそれぞれの世界でそれぞれのブッダとして存在していると考えた。この多くのブッダの中に西方極楽浄土の阿弥陀如来や東方浄瑠璃世界の薬師如来などがある。また、歴史的存在、肉体を持った存在であった釈迦の教えがただそのまま伝わるのではなく、大乗仏教として種々に発展を遂げ、さまざまな宗派を生み出すに至る。


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この思想運動が古代から続くタントリズムと結びつき、ブッダとは非歴史的な「物自爾」ともいうべき存在(法身)の自己表現であるという視点が生まれ、その存在を大日如来と想定した。それ以前の、歴史としておもてに表れた部分(顕教)の背後に視座を置くことからこの仏教を顕教から区別して「密教」という。密教の経典は釈迦ではなく大日如来の説いたものとされる。心で仏を想い、口に真言を唱え、手で印を結ぶ三密加持を行じ、みずからこの非歴史的存在を象徴することで成道できるとする「即身成仏」を唱えた。

そのほか、釈迦が入滅してから1500年が経過すると仏教はその有効性を失うとする末法思想を背景に、末法の世において娑婆世界で成道すること(自力聖道門)の困難を主張し、それを放棄することでいったん阿弥陀仏の極楽浄土へ往生してから成道すること(他力浄土門)を提唱する浄土教も起こった。

上座部仏教と大乗仏教、顕教と密教、自力門と他力門など互いに相容れないように見える教義がひとつの宗教にあることは不思議なようであるが、もちろんすべての宗派に共通しているのは仏教の証しとされる三法印である。

2009年04月25日

トム・ソーヤーの冒険

トム・ソーヤーはおよそ10歳のいたずら盛りの腕白少年である。優等生の弟シドと共に、亡くなった母の姉である伯母ポリーに引き取られ暮らしている。トムは勉強嫌いだが、いたずらに情熱を傾け、家の手伝いをサボることに知恵を働かせ、伯母に叱られる毎日を送っている。町外れでホームレス同然に暮らしている少年「宿無しハック」ことハックルベリー・フィンはトムの親友で、伯母は良い顔をしないが、いつも一緒に遊んだりいたずらしたりしている。

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また、地方判事の娘で同級生の“ベッキー”レベッカ・サッチャーの関心を惹こうと躍起になったり、いけすかない気障な少年と取っ組みあいになったり、家出してミシシッピー川をいかだで下り海賊ごっこをやったりと、トムは大人の決めた枠から外れた無鉄砲な、しかし楽しい日々を過ごす。

ある日トムはハックと共に、真夜中の墓地で殺人を目撃してしまう。犯人のインジャン(インディアンの蔑称)・ジョーは、前後不覚に酔っ払っていた男――マフ・ポッター老人に罪を着せるが、裁判の場でトムに真実を告げられ、逃走する。

夏休み、観光用洞窟の中でトムとベッキーは迷子になり、暗闇と飢えと戦いながら決死の脱出を図る。途中、行方不明のインジャン・ジョーと遭遇しつつもその手を逃れ、やっとの思いで町に戻る。トムの証言で洞窟は封鎖され、ジョーは餓死する。しかしジョーが洞窟で何をしていたのか気がかりなトムは、ハックと共に再び洞窟に入り、そこで財宝を探し当てる。

2009年04月07日

クロスオーバー (音楽)

クロスオーバー(Crossover)とは、ジャンルの垣根を乗り越えて音楽性を融合させるスタイルを指す音楽用語。

ジャズのクロスオーバー [編集]
1960年代頃に流行したジャズの演奏スタイルのひとつ。

歴史 [編集]
1960年代後半より、電気楽器やロック風な奏法を取り入れた、新しい演奏スタイルジャズ・ロックが生まれ、先鋭的なミュージシャンによって演奏スタイルの可能性が拡大された。そして、シンセサイザーをはじめとする電子楽器の出現で、音色などの演奏表現も豊かになった。クラシカルな曲想や、現代音楽的な音空間の表現のプログレッシブ・ロックも現れ、作品としてのジャズ演奏だけでなく、コマーシャルなポップミュージックやロックにも通じ相互に影響を受けたニューヨークやロスアンゼルスのスタジオ・ミュージシャン達の中から、より洗練された形で、ジャンルの垣根を乗り越えた(クロスオーバー)音楽が生み出されるようになった。

ストリングスやブラスのオーケストラとエレクトリック・ジャズのバンド演奏が巧みに絡み合うアレンジメントが重要な役割を持ち、デオダート、ボブ・ジェームス、ドン・セベスキーらアレンジャーが脚光を浴びた。またこのジャンルの作品を多く制作していたのが、ブルーノートでも評判を得ていた名プロデューサー、クリード・テイラーの主宰するCTIレコードで、先に挙げた3人のアレンジャー達自身のアルバムの他に、プレイヤーとして、ジョージ・ベンソン、ヒューバート・ロウズ、グローバー・ワシントン・ジュニアらが作品を発表している。

同時期にチック・コリア、ハービー・ハンコックらも、自らのバンドでさらに洗練されたクロスオーバー・ミュージックの作品を発表している。

代表的なアルバム [編集]
"Deodato2"デオダート
"Return To Forever"チック・コリア

ロックのクロスオーバー [編集]
ロックのクロスオーバーは時代や音楽性ごとに細かく区分されている。代表的なものにミクスチャー・ロックやクロスオーバー・スラッシュなどが挙げられる。

ロックが1960年代に発展する過程でブルースを発展させるだけでなく、主にクリームなど演奏能力に長けたバンドがジャズやクラシック音楽を取り入れてロックの概念を広げていった。それらはやがてレッド・ツェッペリンなどに代表されるハードロックやキング・クリムゾンなどに代表されるプログレッシブ・ロックなどとして大きく発展していくことになる。

ポピュラー音楽におけるクロスオーバーの一つの頂点が、パンク・メタルとも呼称されたクロスオーバー・スラッシュと呼ばれるジャンルである。1980年代に入ってロックがより過激なものになってくると、それまでのハードロックとパンク・ロックを強力に組み合わせたものが現れる。さらにそれがヘヴィメタルとも融合しだし、その音楽性はスラッシュメタルの要素を持つに至った。

もう一つの頂点は1990年代にブームが冷め切っていたヘヴィメタルとヒップ・ホップやファンクに代表される黒人音楽のクロスオーバーさせたジャンルで、ラップメタルやファンクメタルなど幾多のジャンルを生み出した。この動きは日本ではミクスチャー・ロックと呼ばれた。

クラシック音楽のクロスオーバー [編集]
クラシック音楽とポピュラー音楽がクロスオーバーしたサウンドは1990年代にブームが始まっており、クラシカル・クロスオーバーと呼ばれている。このジャンルの基本的なアレンジはオーケストラを生かしたポップス(ロックやエレクトロニカ等を含む)系の演奏をバックに声楽を活かした旋律を歌うものが多い。

このジャンルの起爆剤となったのはサラ・ブライトマンとアンドレア・ボチェッリのデュエット「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」(1996年)と見られている。この曲は全世界で2,500万枚以上を売り上げたとされ、このジャンルのスタンダードになった。またこれ以後追従する歌手が爆発的に増えることになった。増田いずみはこのジャンルをポップ・オペラ、またイル・ディーヴォはポペラと呼んでいる。音楽評論家の片桐卓也はこのジャンルの隆盛の背景として「クラシック界の中核を担う40、50歳代の音楽家は、若いころ、ごく自然にロックやポップスに親しんできた世代で、ポピュラー音楽を取り上げることに抵抗感のない人が多い」ことを挙げている[1]。

日本でのクラシカル・クロスオーバーの人気も近年とみに高く、日本でのこの分野の草分けとなった前述の増田をはじめ多くの歌手が活動している。2005年に本田美奈子.のアルバム『アメイジング・グレイス』が日本人歌手によるクラシック・アルバムとしては初めてオリコンチャートトップ10入り(7位)を果たし[2]、秋川雅史の「千の風になって」が2007年のオリコン年間シングルチャートで第1位となった[3]ことなどはその象徴と言える。カノンやYuccaなど若手歌手の活動も注目を集めるようになってきている。

ション トリソウ コホシュ 砂漠 スタディ イライン リセッセ シミュレ タリオ ドライシ アカネス 晴レルヤ グレープフ イナル タラップ クォーラム ウンセケ ブルート シュガ オートク しむか かんげん ボール 海辺の扉 ブィク バック ミディア 蛍の光 スクリュ 天喜人気 チーズ セラピー ゴリラ コレク ブックパカ テクタイト スローピン サンダー タータン ガイドヒヒ シトリン プリ マップ テークオフ シュビル クイヤン バンド トピック SEOタウンテニス シーディー

2009年03月23日

カルダン駆動のバリエーション

現在の日本では、以下の3種類のいずれかが一般的である。

中空軸平行カルダン駆動方式:限られた空間の中で車軸と電機子の変位量を大きく許容するため回転軸を中空にし、電動機の両側に配置した二つの撓み板継手を直結する回転軸を中空軸の中に通したもの。原型となったのは、スイスのBBCディスクドライブで、日本においては東洋電機製造が独自開発により実用化に成功した。車軸位置の偏倚量が大きくとも対応可能で、しかも継手の軸方向の長さをほぼ無視できるため、国鉄の新性能電車をはじめ、主に狭軌の鉄道で幅広く採用された。
WN平行カルダン駆動方式:中実軸の電動機と歯車との間にWN継手を配置したもの。三菱電機がライセンシーとして製造。中空軸平行カルダンに比べWN継手を設置するスペースの確保に特別の工夫が必要であることから、当初は標準軌の鉄道で先行して普及したが、電動機、及びWN継手の小型化技術が進展したことにより狭軌の私鉄でも用いられるようになった。中空軸平行カルダン駆動方式やTD平行カルダン駆動方式に比べ耐久性が高いことから、700系のC19編成以降のグリーン車およびN700系を除く新幹線やJR西日本の標準駆動システムとしても採用されている。
TD平行カルダン駆動方式:中空軸平行カルダンの撓み板継手を2個組み合わせ小型化した形態の「TD (Twin Disc) 継手」を中実軸の電動機と歯車との間に設けたもの。東洋電機製造が開発・製造。WN方式に比べ構造が簡単で、保守性も高いことから、JR西日本を除くJR各社や、従来中空軸平行カルダンを採用していた鉄道事業者を中心に普及している。また、近年では耐久性が向上したことから、新幹線への採用例も出てきている。
また、現在はごく少数になったが、カルダン駆動の黎明期に多用されたものとして、以下の方式があげられる。

直角カルダン駆動方式:かさ歯車、もしくはウォームギアと平歯車の組み合わせにより、駆動軸がレール方向に平行となるように主電動機を台車に装架したもの。歯車の整備性に難があること、駆動装置そのものの重量・容積が大きいこと、軸距が長くなり台車の重量が増大しやすいことなどが欠点として挙げられる。もっとも、電機子の軸方向の長さが車輪のバックゲージに制約されないため、狭軌向けであっても比較的大出力の主電動機を選択できることに加え、かさ歯車として歯を斜めに切ったスパイラル・ベベルギアを利用することで平行カルダンでは得られない静粛性が得られるというメリットがあり、日本においては初期の高性能電車で多用された。もっとも大きな力のかかる歯車全般、中でも特にスパイラル・ベベルギアは表面の耐摩耗性と内部の靱性の両立に加え、きわめて高精度な切削処理が要求されるため、材料の選定や加工が非常に難しく、日本で最初にこの方式に挑んだ東芝では材料となる合金鋼の製造・表面処理に手を焼いた。そのため、それらのノウハウが確立され、また高精度な加工を可能とするアメリカ製の専用工具が導入された1954年まで、充分実用に耐える製品が製造できなかった[2]という。日本では東芝の他、日立製作所も製造を行っており、後者では大口納入先の一つであった相模鉄道の技術陣がこの方式に固執したためもあって、その製造は21世紀に入るまで続けられた。

近年の傾向として、VVVFインバータ制御と誘導電動機の組み合わせの普及の結果主電動機の小型化並びに高出力化・高回転化が推進されたことから、中実軸の電動機を用いるWN式、TD継手式のいずれか(事業者によっては両者を併用)が主流となりつつある。

その他の方式としては以下の方式が挙げられるが、特殊構造に類し、一般的ではない。
こどまり バーベキュー スターライト ハンバ むぎわら ヘデラ スクエア レポレート タチアオイ かささ あとがま レムリア 紙飛行 モノカイ サフル サウジ ラノオ ダクション かしはら デコラ フルス レべリング クンツ フェライト かぶとが ピンチ ナビユタ わらび野 コロポ リパー ライセ あねご トーテム 世界一周 しゃな ロコモー シュー ファーム てごろ ンソウ ドライ リード オミット ドルチェ イズム セッティ スイート ハジサー つきほと 桃一郎

車体装架カルダン駆動方式:車両の車体側床下に電動機を固定し、カルダンジョイントを備えたプロペラシャフトで車軸を駆動する。気動車の駆動システムに類似することから古い時代の気動車改造電車に実例が見られたほか、近年では駆動装置のスペースに制約の多い超低床形路面電車などに採用例がある。
垂直カルダン駆動方式:日本の神鋼電機が1954年に開発した方式で、電動機を垂直に立てた状態で台車装架する構造。かさ歯車を利用する点は直角カルダン駆動に類似するが、中間歯車を加え、カルダン継ぎ手の代わりに伸縮軸を用いて車軸の変位を吸収する。スペース制約の厳しい軽便鉄道でも使用可能な機構だったが、構造が複雑でデメリットが多く、ほとんど普及せずに廃れた。

2009年03月08日

米英戦争(べいえいせんそう、War of 1812)

米英戦争(べいえいせんそう、War of 1812)は1812年6月-1814年12月、イギリス及びその植民地であるカナダ及びイギリスと同盟を結んだインディアン諸部族と、アメリカ合衆国との間でおこなわれた戦争である。「1812年戦争」「アメリカ=イギリス戦争」「第二次独立戦争」とも呼ばれる。カナダ、アメリカ東海岸、アメリカ南部、大西洋、エリー湖、オンタリオ湖を主戦場に戦われた。

この戦争がおこった背景にはいくつかの理由がある。

第一にヨーロッパでのナポレオン戦争中、アメリカは中立を宣言するが、イギリスによる海上封鎖によって、アメリカは経済的大打撃を受けていた。またイギリスの米船に対する臨検活動も反英感情を強めた。
ビレッジ ジュレーター ララバイ 幸せの鳥 モノライン ギンヌン オプシン レンズ じゅん ナッパ トマト データ リデュース ピンサロ ブッフェ ニング エンド ちゃうす デンド ドライブ クロマ レトロ シロホン タンタン オーダ キットキ メソポ オフデ スイス デシベル ノニ チョコ ムルデ ジャバ オパール ソワニ カノン カキラン ニズム ロード フィード シュルント ミードテ リニアック たてあな ランナ バギナ パイント ドスキン ヨーデル

第二にアメリカ国内において、南部諸州人はインディアンの土地を狙っていたが、激しく抵抗するインディアンたちの背後でイギリスが扇動していると考えていた。そのため反英感情が高まっており、根本的解決のためにはイギリスと戦争するしかないと考えられた。この戦争においてインディアン達はアメリカ人の侵略活動による西進を防ぐ為、イギリスと手を組んだ。

第三にナポレオン戦争に関わっていたイギリスには新大陸に戦力を向ける余裕が無く、アメリカはその隙を狙っていわば火事場泥棒的にカナダをイギリスから奪おうとした。

第四に、第三の理由からアメリカの指導者達は戦争はすぐに終わると楽観していた。

戦争の経過
こうしてアメリカから仕掛けられて始まったのが米英戦争である。

1812年6月18日、アメリカ第4代大統領ジェームズ・マディスン政権のときに米国議会はイギリスに宣戦布告した。

外交的な論争が何年も続いた挙げ句の開戦ではあったが、どちらの側も戦争の準備はあまりできていなかった。

イギリスはナポレオン戦争に掛かりきりでいた。イギリス陸軍の主力はスペインでの半島戦争に取られており、イギリス海軍はヨーロッパの海上封鎖を強いられていた。1812年6月のカナダ駐在イギリス軍は公式の数字で6,034名となっており、これにカナダ民兵が支援していた。米英戦争の間、イギリスの陸軍及び植民地担当大臣はヘンリー・バサースト伯爵であった。開戦から2年間、イギリスは北アメリカの軍隊を補強するゆとりがなかったので、北アメリカ総司令官ジョージ・プレボスト中将に防衛的な戦略を採らせた。このことはプレボスト自身の考えでもあった。しかし、1814年になると、戦争経験のある25,000名以上の大規模な増援が可能になったにも拘わらず、プレボストのニューヨーク侵攻はプラッツバーグの戦いでの敗北で挫折した。また南部のルイジアナ侵攻もニューオーリンズの戦いで反撃された。

一方、アメリカ合衆国の方は楽観的に見過ぎていた。マディスン大統領は、民兵が容易にカナダを確保し、その後に停戦交渉を行えばよいと見ていた。1812年、アメリカ陸軍の正規兵は12,000名を切っていた。アメリカ合衆国議会は陸軍兵力を35,000名まで拡張することを認めたが、従軍は志願に頼り、給与が少なくて不人気だったうえに、最初の内は訓練を積み経験のある士官が少なかった。民兵は正規兵の応援を要請されたが、その所属する州の外での従軍には反対し、規律もあまり良いとは言えず、さらに出身州の外で敵と遭遇すると働きが悪かった。合衆国は戦費を賄うことが非常に難しい状態にあった。これは丁度国立銀行を放棄したばかりであったことと、北東部の民間銀行が戦争に反対していたことによっていた。

アメリカの準備の足りなさと、アメリカ合衆国陸軍長官ウィリアム・ユースティスの指導力の不足とで、ユースティスの更迭にまで発展し、初期のアメリカは悲惨な状況だった。ユースティスの後継者ジョン・アームストロングは1813年遅くにモントリオール占領を目指した連携戦略を試みたが、兵站の破綻、非協力的で喧嘩っ早い指揮官達および訓練の足りない兵士によって失敗させられた。1814年までにアメリカ合衆国陸軍の士気と指導力は大きく改善されたものの、首都ワシントンが焼き討ちにあい、今度はアームストロングが職を追われた。次の陸軍長官ジェームズ・モンローが新しい戦略を立てる前に、戦争は終わった。

アメリカの戦争遂行は、特に反戦論の声が大きかったニューイングランドでの不人気に災いされた。ニューイングランドが民兵や財政的な援助を与えられなかったことが深刻な打撃となった。ニューイングランドが合衆国から脱退するという脅威もあり、イギリスはこの分裂を即座に利用して、海上封鎖を南部の港に限定し、密貿易を奨励した。

米英戦争は主に3つの戦線で行われた。

五大湖地方およびカナダ戦線
大西洋戦線
南部諸州戦線

2009年02月19日

モビルスーツは平均的に人間の約10倍の大きさ

モビルスーツは平均的に人間の約10倍の大きさ(身長180cmと仮定して、18m。ただし作品によって大きさはまちまちである)をした人間型有人機動兵器で、胴体や頭部に設けられた操縦席に直接人間が乗り込み操縦をする。地球上や宇宙空間で主に活動するが、海洋や砂漠等の局地ではそれ専用に製作もしくは改修されたモビルスーツであれば行動できる。また、以上に挙げたどの環境でも行動可能なモビルスーツも存在する。
マクロ ロード ナビビラ 地中海 フロー ワダン リグベーダ 探険隊 クロス テレキ シルエット メイン キュリーズ ファイト フロー ターキ 草競馬 ブロイ オフテン タオル ダイアリー ビルト ビヤマグ ビードロ ローシップ ウーマンパワー グルタチ ダクター ルテオリン マイムエ はだし ポルテ 百日紅 サイダー ミニカ プリンセス がんばる パーセント あばしり ショート スパル ましけ アジェンダ 氷河便利 シーベル フェイク アフタ フルーテ ドリンク トレンチ

その行動はほとんどの場合、敵対勢力との戦闘を目的としており、ビームライフルを始め複数の武器を携帯するのが常である。また、モビルスーツそれ自体が移動するための燃料類(推進剤等)の搭載量が限られているため、稼動のためには補給や修理、整備を行える施設及びモビルスーツ単体の輸送も可能な宇宙戦艦等の、バックアップ体制が欠かせない。

また、モビルスーツはその外形を人型を拡大したものにすることで、人間に似た多用途性や汎用性を獲得したが、逆に人型にとらわれない外形で、モビルスーツには無い高加速能力や火力の増加などを取得している、モビルアーマーという種類も存在する。

なお、モビルスーツとの区別のため、人間が直接着用する従来のパイロットスーツや宇宙服は「ノーマルスーツ」と呼称されている。

ガンダムシリーズは以下に述べるように複数の世界観で展開され、モビルスーツの設定は各々の世界観で多少異なっている。

各世界観におけるモビルスーツ
以下の設定には、アニメ作品中で表現されたものの他、先に述べたような雑誌上の企画で創作されたものや漫画・小説などの派生作品で創作されたものも含まれている。そうして作られた設定は後にサンライズの監修を受けて設定集などの形にまとめられたものが多いが、中には他の作品と矛盾を起こすものや後に顧みられなくなったもの、サンライズによって後に取り消されたものもある。それらの中にもファンの間でそれまで同様に扱われる設定も含まれることに注意が必要である。

宇宙世紀におけるモビルスーツ
『機動戦士ガンダム』をはじめとする作品群の舞台となる「宇宙世紀」におけるモビルスーツ (Mobile Suit) は、"Mobile Space Utility Instrument Tactical" の略とされ、「戦術汎用宇宙機器」の意味である。

ただ、これは後にサンライズでSF考証を手がけることになる森田繁が、1980年代初めの同人誌「ガンサイト」やムック「ガンダムセンチュリー」で作った略語で、また裏設定の創作を手がけるプロダクション「伸童舎」のメンバーらによる、1990年代以降の関連書籍にも記載されている。それ以前には、単に“機動服”という意味を意図した乱暴な和製英語として存在していた。また、劇場版第2作『機動戦士ガンダムII 哀戦士編』のパンフレットに掲載された大河原邦男のイラストには、「宇宙白兵戦用重機動宇宙服」という言葉が意訳語として掲載されていた。

黎明期
地球連邦政府に対する全面戦争を想定していたジオン公国が、質、量ともに強大な力を持つ地球連邦軍に対し優位に立つための新しい兵器として、宇宙世紀0071年にサイド3の民間企業ジオニック社とツイマッド社とMIP社に宇宙用機動兵器の開発を委託。両社の提出した試作機はどちらも「腕」を備え「能動的質量移動による自動姿勢制御(AMBAC)」が可能であったが、加えて「脚」を備え完全な人型であったジオニック社の機体の方が選ばれ、宇宙世紀0073年、MS-01という型式番号とモビルスーツという名称を与えられた。宇宙世紀0075年、実戦型モビルスーツの採用トライアルにおいて、ジオニック社はYMS-05、ツイマッド社はEMS-04(ヅダ)を提出。EMS-04は宇宙空間での高い機動力を発揮しながらも試験中に爆発事故をおこし、結局安定した性能を示したYMS-05が採用され、「MS-05ザク」(後にザクI)と命名された。また、地球侵攻作戦のための局地戦用MS開発も宇宙世紀0076年に開発が始められた。

そして、ザクIとその改良型であるザクIIの大量生産が行われ、宇宙世紀0079年の一年戦争の緒戦に投入された。戦艦対戦艦の超長距離砲撃戦や突撃挺・戦闘機による一撃離脱戦法という、従来の艦隊決戦のみを想定していた地球連邦軍の意表をつく形で、目視での遠近感が掴みにくい宇宙空間で、しかも高い機動性を発揮するモビルスーツが接近し、敵艦に直接攻撃を加え撃破するという戦闘を行い、有効な迎撃手段を持たない地球連邦軍に対して圧倒的優位に立つこととなった。

この他、モビルスーツの開発以前にジオン公国で発見されていたミノフスキー粒子(レーダーやセンサー類を使用不能にするなど様々な働きをする)を戦闘空域で散布する事により、高性能レーダーに頼っていた地球連邦軍戦艦の索敵手段を封じる事に成功したのも大きな勝因であった。また、後に地球上においても水陸両用MSが連邦軍の艦艇に多大な被害を与えている。

そして、ジオン軍に決定的な差を付けられ、大打撃を受けた地球連邦軍も極秘にモビルスーツを開発。当初完成したのはガンダム、ガンキャノン、ガンタンクという3種類のモビルスーツであった。連邦軍は、これらの中で特に能力が突出して高かったガンダムの簡易量産型であるジムを大量に生産し、実戦投入した。これにより地球連邦軍は一年戦争に勝利する事ができた。

それ以降、モビルスーツという新たな兵器体系は戦車や航空機等といった既存の兵器のほとんどに取って代わる存在となり、また、多種多様なモビルスーツが製作されていく事となる。

なお『ガンダム』世界はエネルギーを木星産のヘリウム3による核融合発電に依存している。モビルスーツの動力源にはミノフスキー物理学により大幅な小型化を実現した「ミノフスキー・イヨネスコ型熱核融合炉」が使用されており、冷却問題を除けば稼働時間限界はないと言ってよい(ただし、具体的に核融合をどう用いて発電を行うかについて、作品中で語られたことは一度もない)。

また、高性能だが汎用性・生産性に乏しく後にモビルアーマーへと怪物的進化を遂げたジオン側モビルスーツと、汎用性と生産性を重視して数で圧倒した連邦側モビルスーツとが、それぞれ第二次世界大戦におけるドイツとアメリカの戦車開発・運用状況を反映していると言われている。

激動期
宇宙世紀0080年代後半は、MS開発における激動期である。ムーバブルフレーム構造を採用した第2世代から、変形機構を備えた第3世代、さらにニュータイプ (NT) 対応機能を備えた第4世代といった、MS数世代分の進化がこの時期に集中している。地球連邦軍内部におけるエゥーゴとティターンズの主導権争い、アクシズの帰還など、地球圏は一年戦争時に匹敵する混沌とした状況下にあった。また、当時は一年戦争以降積極的に進められていた公国系と連邦系の技術融合の成果が結実した時期でもあり、それらの相乗効果と相まってMSの単機あたりの性能は爆発的に向上していった。

機能向上に伴う付加機能の方が脚光を浴び、その性能を更に向上させるべく、本来のMSにとって必要とされない装備が追加されていくようになる。こうしてMSは徐々に巨大化を余儀なくされる。MSの平均全長は一年戦争期の機体の17m前後を超え、一割り増し以上の20m強となる。

巨大化に伴い、さらに多様な機能が要求される。変形機能は勿論のこと、戦艦クラスに匹敵、或いは優るような火力、惑星間に及ぶ航続距離、大気圏内航行能力、そしてサイコミュの搭載など、MSに対する要求はまさしく万能兵器を志向するものであった。万能的な機能を搭載するため、巨大化は増進される。実験機の中には30mは優に超え、40mに達する機体まで出現し始めた。この時点でMSは進化の袋小路に入り込み、いわゆる恐竜的進化を遂げつつあった。

ルスーツの世代別分類
モビルスーツが登場して以降、その時代背景や技術水準によって様々なタイプのモビルスーツが開発されている。モビルスーツは次の様に大別される。

第1世代モビルスーツ
主に『機動戦士ガンダム』とその外伝群、および『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』に登場する世代。

ジオン公国軍が開発したザクIを始めとし、モノコック構造あるいはセミ・モノコック構造を基本としている。一年戦争終結までに開発されたモビルスーツのほぼ全てと、デラーズ紛争期のモビルスーツがこれに含まれる。以後のモビルスーツの基礎を築いた。

モビルスーツという兵器が登場したばかりのため、様々なタイプのものが製作され運用された。運用されるものの中には後方支援タイプのキャノン搭載タイプや、水中で行動可能なものなどもみられた。しかし、世代が進みモビルスーツの性能が上がるにしたがい、こういった専用のタイプというものは製作されなくなる傾向があり、多岐にわたったMSの進化の道は次第に絞られて洗練されていった。

第2世代モビルスーツ
主に『機動戦士Ζガンダム』『機動戦士ガンダムΖΖ』『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』に登場する世代。

第2世代モビルスーツの条件として全天周囲モニター・リニアシート・イジェクションポッドの採用、ムーバブルフレームの導入、装甲材としてガンダリウムγを使用していることの3つを満たしていることが挙げられる。また、ジェネレーターの小型軽量化と高出力化によりビーム兵器の携行が一般的となった。装甲もビームの直撃を避けるため運動性重視のものとなり、それを対ビームコーティング仕様のシールドで補っている。一年戦争終結後に開発され、グリプス戦役から第二次ネオ・ジオン抗争に掛けてのほとんどの量産機がこれにあたる。

第3世代モビルスーツ
第2世代モビルスーツに可変機構を加えた可変モビルスーツがこれにあたる。グリプス戦役から第一次ネオ・ジオン抗争に掛けて多くの試作機が投入され、機動性や行動範囲を高めたり状況によって可変して戦闘することが出来た。しかしその反面、生産コストの高騰や機体構造が複雑になったことによる整備性の低下などにより主力機とはなりえなかった。

第4世代モビルスーツ
第一次ネオ・ジオン抗争時に台頭した、大火力を備えるニュータイプパイロット対応モビルスーツの総称。基本的な条件としてはモビルアーマークラスの高出力ジェネレータの搭載、並びにジェネレータ直結式の高出力メガ粒子砲を固定武装として有すること、さらに、サイコミュの安全性が高く、高度なニュータイプ能力を持たないパイロットにも操縦可能な点が挙げられる(インコムやバイオセンサーといった簡易サイコミュもこの範疇に含まれる。)。また、多機能化を追求した結果、総じて大型化する傾向にあり、頭頂高20mを超える機体が多い。変形機構の有無は条件には含まれず、スラスター・デバイスの推力自体は然程向上していない。しかし、ジェネレータの出力そのものが大きいため、モビルスーツとしての機動力は旧世代機を上回る例も少なくない。また、MSZ-010 ΖΖガンダムのような第3・第4世代双方の機能を有する機体も極一部には存在するが、この様な超々高級機は例外とされている。

第4世代モビルスーツは、その攻撃能力面において極めて高い性能(雑誌『ガンダム・ファクトファイル』を始め、ガンダム関連の書籍では「恐竜的進化を遂げた」と形容される事が多い)を発揮したものの、兵器としては末端肥大化した感も否めず、また、コストや運用性の問題から大量生産には向かず、一部のエース・パイロット向けに少数が配備されるに留まっている。また、モビルスーツの技術的限界が見え始めた時期でもあり、第二次ネオ・ジオン抗争以降は再びシンプルな機体コンセプトへと回帰していく事となる。

第5世代モビルスーツ
ミノフスキークラフトを搭載したモビルスーツを第5世代モビルスーツと呼ぶ。すぐに第2期モビルスーツの時代に移行してしまったため、ここに分類されるものはペーネロペー、Ξガンダム、ゾーリン・ソールのみである。なお、後述の第2期モビルスーツを第5世代モビルスーツに分類する資料もある。

第2期モビルスーツ
主に『機動戦士ガンダムF91』『機動戦士Vガンダム』に登場する世代。

宇宙世紀0110年代、これまで大型・高機能・複雑化、それに伴うコスト高という進化を続けていたモビルスーツを、原点に立ち返って見直す風潮が生まれる。そしてこれまでモビルスーツ開発の主導権を握っていたアナハイム・エレクトロニクス社に対抗して、サナリィがF90という小型モビルスーツを製作し、アナハイムが製作したモビルスーツ(MSA-0120。機体名の設定なし)とのコンペティションにて、F90が次期主力モビルスーツに決定される。これ以前のモビルスーツは第1期モビルスーツと分類され、以降は第2期モビルスーツと分類される。全高は第4世代モビルスーツでは最大20mを超えていたのに対し、15m程度にまで小型化される。高出力化が進み、ビームシールドの装備と単独での長時間飛行が標準的となる。また、このサイズでのIフィールド防御や大容量の携行武器も実装されている。

有人機動兵器のその後
その後宇宙世紀0120年代から少なくとも0150年代まで、第2期モビルスーツが主力となる。

そのさらに先の時代である宇宙世紀0200年代を書いた小説『ガイア・ギア』には、モビルスーツに替わってマン・マシーン (MM) と呼ばれる機動兵器が登場し、再び20?24m程度へと戻っている。『Gセイバー』では再びモビルスーツが現れるが、マン・マシーンと同じく全高は20m程度である。

2009年02月03日

上杉氏(うえすぎし、うえすぎうじ)は、日本の氏族

上杉氏(うえすぎし、うえすぎうじ)は、日本の氏族の一つ。元は公家であるが、鎌倉幕府の将軍となった親王の従者として関東に下向し、武士化した。京都府綾部市上杉が名字の地。鎌倉時代、室町時代から江戸時代にかけて栄えた武家の一族が著名である。
コレオ おいで リトリート 宵待草 バック レポーター デトネー ペラル なよろ ラファエロ タムシバ レーション かぜのよ フリンダ トーイン シナリオ セミコン ブザム サイド ノータ ノール フラット パワフ フリゲート ソナチネ ますか かでん ローデ あかだい ハーレム エーション バレリーナ ネオン テレビ クロミッ キウイ ワラチ 水色の 遠き旅路 グラス フロート ハバロ もろあう マアア キャパ ホマホ スコア バンビダ ワジナビ セゾン

藤原北家勧修寺流の流れを汲み、鎌倉時代の中頃まで京都の中級公家の家柄であった、重房の代に至って丹波国何鹿郡上杉庄(うえすぎのしょう、現在の京都府綾部市上杉町周辺)を領したことにより上杉を名字とした。足利尊氏は当地で産まれたとの伝承が残る。元々は、天皇家に仕える公家であったが、鎌倉時代後期、親王の将軍就任に従って鎌倉へ下向してのちに武士となった。のち足利氏の姻戚として勢力を伸ばした。

室町時代は鎌倉府にあって鎌倉公方の執事、次いで関東管領の職を世襲し、相模、武蔵、上野、越後など一門で4ヶ国の守護職を占める有力守護大名としても栄えた。しかし、従来より鎌倉府に仕え関東に拠点のあった山内上杉家と、当初は室町幕府に仕えて京都に在住した扇谷上杉家が、関東の覇権をかけて内紛を起こし次第に勢力を衰退させる。

戦国時代には関東における覇権を、次第に新興勢力である後北条氏に押され、山内上杉家の当主上杉憲政は、越後守護代として勢力を台頭させていた三条長尾家の長尾景虎(後の上杉謙信)に上杉の名跡を譲った。景虎は山内上杉家督、関東管領就任により上杉政虎(輝虎)と名乗った。これにより再び上杉氏は勢いを取り戻し、その養子景勝(越後長尾氏のうち上田長尾家より)は豊臣政権の五大老を務め、会津藩120万石。江戸時代は米沢藩30万石(実高51万石)を領した。のち無嗣の危機に瀕したこともあり15万石(実高33万石)に減知されたが、幕末まで大名としての地位を維持した。

明治時代は華族に列し、伯爵を授けられた。

鎌倉時代・南北朝時代・室町時代
初代上杉重房のとき、鎌倉幕府の征夷大将軍に迎えられた宗尊親王に従って鎌倉へ下向し、有力御家人の足利氏と姻戚関係を結んだ。南北朝時代、重房の孫・憲房は妹の清子が足利尊氏・直義兄弟の母であったことから尊氏を助けて功績を立て、上野の守護に任ぜられて関東で南朝方の新田氏と戦った。

また、重房の別の孫は題目宗の僧となって日静と名乗り、京本圀寺や越後国三条本成寺(新潟県三条市)を有した。師の名僧日印の問答対決を「鎌倉殿中問答」にまとめ、宗門の興隆を導いた。

その後、観応の擾乱では高氏と対立するなど波乱もあったが、憲房の子の憲顕の時代には上野・越後・伊豆の守護を兼ねた。上杉憲顕が1363年に鎌倉公方足利基氏の執事(管領)に任ぜられて、初代の関東管領になって以来、鎌倉に居住した一族から犬懸(いぬかけ)、山内(やまのうち)、宅間(たくま)、扇谷(おうぎがやつ)の4家が出た(頭に居住地名を冠している)。宅間上杉家は早くに衰え、犬懸上杉家は上杉禅秀の乱により主流派から脱落したので、15世紀半ばからは憲顕の子孫山内上杉家と、憲顕の従兄弟の子孫扇谷上杉家の2家が有力となるが、関東管領の職はもっぱら山内上杉家の当主が独占した。この頃の山内上杉家当主であった関東管領上杉憲実は、足利学校の再興者として歴史に名を残している。その一方、上杉氏と足利公方家の対立が鮮明となり、1454年には鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠(憲実の子)を殺害したことに発する内乱(享徳の乱)が発生し、関東は応仁の乱よりも十数年早く事実上の戦国乱世に突入することとなった。

戦国時代
享徳の乱の際、扇谷・山内両上杉家は連合して古河公方(鎌倉公方の後身)と敵対していたが、古河公方との和睦後は両家で争うようになり、内紛の末に衰退し、新興の後北条氏に圧迫されるようになる。武蔵国に勢力をもっていた扇谷上杉家は、1545年の河越夜戦で後北条氏に敗れて滅亡し、上野国を本拠としていた山内上杉家の上杉憲政も、河越夜戦以降は後北条氏の攻撃を直に受けるようになって勢力を衰退させていった。憲政はついに関東を放棄し、もとは家臣筋であり外戚でもあった越後長尾氏を頼った。1561年、憲政は山内上杉家の名跡と関東管領の職を、越後三条長尾家の長尾景虎(後の上杉謙信)に譲り、自身は春日山に移った。深谷上杉家の上杉憲盛は武蔵国にとどまって北条氏との戦闘を継続した。

以後、長尾氏が上杉氏の嫡流を称する。上杉謙信は、越後を拠点として領国を関東と北陸に拡大したが、その死後、二人の養子景勝と景虎の間で家督争い(御館の乱)が起こり、この混乱によって関東地方の領国を喪失した。

この争いは、長尾一族の出身(越後上田長尾家)で謙信の姉の子にあたる景勝が勝利し、上杉氏の名跡を継承するが、謙信・景勝以降の上杉氏(長尾上杉氏)では、謙信を初代、景勝を二代と称している。

安土桃山時代・江戸時代・明治時代
上杉景勝は、織田信長の横死後豊臣秀吉に仕え、五大老の一人となった。この間、1587年には反抗した新発田重家を攻略して越後を再統一し、1589年には秀吉の命により佐渡を平定。越後、佐渡、出羽庄内の91万石を領有し、領内に多くの金山を抱えてその実収入は120万石と言われた。

1598年、景勝は隣国の会津に移封され、陸奥国の会津・白河・田村・安達・信夫・伊達・庄内(田川郡と飽海郡)・置賜、東蒲原、佐渡などに総計120万石を領有するが、1600年の関ヶ原の役に際して徳川家康に敵対し、米沢藩30万石(実高51万石余)に減封された。

1664年、景勝の孫綱勝が急死して断絶の危機を迎えたが、綱勝の舅保科正之(徳川家光の実弟)の尽力により、妹婿吉良義央(上野介、扇谷上杉家の女系子孫)の子綱憲が綱勝の養子に入りした結果、半知15万石(実高30万石余)で家名存続することを許された。上杉斉憲の代に18万石に加増される。

上杉氏は相次ぐ減封により規模を縮小させたが、越後の春日山から持ち込んだ上杉謙信の遺骸を米沢城の本丸内に安置し、謙信崇拝に基づいた誇り高い士風を守った。また、減封のため財政難に悩まされたが、江戸時代後期には上杉鷹山(治憲)が藩の殖産興業を行って財政を立て直した。

明治維新後、米沢藩上杉家は華族に列し、伯爵を授けられた。また、分家米沢新田藩上杉家は、子爵を受けている。

宇宙工学者で宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究本部教授の上杉邦憲は米沢藩上杉家の16代目当主にあたる(謙信から数えて17代目)。

長尾上杉氏以外の系統も、江戸時代まで血統が続いた。深谷家上杉憲俊は平福藩士になり、宅間上杉家は旗本になったと云われる。上杉満定の男系子孫である加々爪氏は江戸幕府譜代大名となった。上条政繁(上杉入庵)の次男・上杉長員の子孫は、旗本(高家)上杉氏として存続し、領地は下総国印旛郡・千葉郡などである。長男・景広の子孫は能登畠山家として上杉家に仕え、三男・義真の子孫も旗本(のち高家)畠山氏、上杉綱憲の挙兵を止めたのがその末裔である畠山義寧(千坂や色部だというのは俗説)である。また米沢藩士としても山本寺氏など上杉家の庶流が存続した。

主な一族
上杉氏には数多くの分家があり、上杉頼重、上杉憲房の子息の代で分かれた以下の系統が著名である。室町時代は隆盛したが、戦国時代以降の混乱によりいずれも没落しており、その末裔は上記のように旗本や諸藩士になる者が多く、江戸時代に大名として存続したのは三条長尾家から上杉謙信を養子に迎えた山内上杉宗家のみである。また、庶流の加賀爪上杉家は一時的に大名となったが改易された。

宅間上杉家
詫間上杉家とも。憲房の養子上杉重能の系統。重能が高師直との政争に破れ死去し、山内上杉家から養子を迎え存続したが、嫡流は次第に山内家に吸収されていった。庶流としては、憲房の一子、上杉重兼の一族がおり、足利持氏の側近を務めた上杉憲直を輩出している。戦国期には北条氏綱に降り、後北条氏滅亡後は宅間氏を名乗り、徳川家康の旗本となった。

犬懸上杉家
憲房の子上杉憲藤の系統。四条上杉家とも。憲藤は足利尊氏の子の千寿王の執事となり犬懸に在住し犬懸家の祖となったとされる。憲藤の孫の上杉氏憲(禅秀)の代に上杉禅秀の乱により衰退し、関東の政治の主流派からは遠ざかったが、氏憲の子の多くは幕府に仕え血統は存続し、一部は堀越公方の関東執事となるなど、禅秀以降も関東の政治に足跡を残した。しかし、戦国時代を境にその動静は確認できなくなり、没落したと思われる。

山内上杉家
憲房の子上杉憲顕の系統。鎌倉移住以前は椙谷上杉家ともいった。山内上杉家を参照。憲政から家督を譲られた上杉謙信(長尾景虎<三条長尾家>)の系統を特に長尾上杉氏とも呼ぶ。山内上杉家の分家として庁鼻和上杉家(後の深谷上杉家)が存在する。また、室町期の佐竹氏本家当主佐竹義人は山内上杉家の出身である。

扇谷上杉家
憲房の兄上杉重顕の子の上杉朝定の子孫が鎌倉の扇谷の地に在住したのが始まり。二橋上杉家、八条上杉家とも。扇谷上杉家を参照。

越後守護上杉家
また、犬懸上杉家から越後守護を世襲する越後上杉家が分かれ(養子により血統的には山内上杉家)、越後国内に山本寺氏、山浦氏、上条氏を分家した。守護代の長尾氏と対立するようになり、上杉房定の代には長尾氏を抑え優勢となり全盛期を築き上げた。房定の死後は、上杉定実を擁する長尾為景によって上杉房能が自害に追い込まれるなど下克上され、上杉定実は為景の死後、伊達氏の支援により復権を図るものの天文の乱により挫折し、後継のないまま死去、1550年に断絶した。

千秋上杉家(小山田上杉家)
憲房の庶兄上杉頼成の系統。上杉家では庶流筋であるが、子孫としては上杉定頼がおり、彼は一時扇谷上杉家の家督代行を務め、足利持氏に重用され安房国の守護となっている。長尾氏の養子となった上杉藤景の系統でもある。

米沢上杉家(米沢藩主家)
上田長尾家出身の長尾顕景は上杉謙信の養子となり、名を上杉景勝と改めた。謙信死後、御館の乱を制し、上杉氏の惣領となり、豊臣秀吉に仕え、陸奥会津120万石(会津藩)を領した。秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは石田三成ら西軍に付いた。しかし、戦後に家康から罪を許されて出羽米沢(米沢藩)30万石減封となり、1664年(寛文4年)に継嗣問題でさらに15万石に減封されたが、家格は国主とされた。減封されたにも関わらず家臣を減らさなかったため、財政難に陥り、一時は領地を返上することまで検討されたが、第9代藩主上杉治憲(鷹山)による改革によって藩政を建て直し、幕末まで存続した。

加々爪上杉家(高坂藩主家)
駿河の今川氏の客将から、江戸幕府の旗本となり、のちに大名となった家系の上杉氏。

庶家
山浦氏
深谷氏
山本寺氏
上条氏
八条上杉家
米沢新田藩主家

系譜
凡例 太線は実子。細線・二重線・斜体は養子。    

(藤原北家勧修寺流上杉氏)

    重房
    ┃
    頼重
 ┏━━╋━━━━━┳━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
日静  重顕    加賀局    頼成=長尾景基の娘        清子(足利尊氏の母)                  憲房
 ┏━━┫     ┃  ┏━━╋━━┓  ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━┥
重藤  朝定     重能 藤景 藤成 藤明 憲顕                            憲藤      重能
 ┏━━┥        ┏━━┻━━┓  ┣━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓           ┏━━┻━━┓    ?
朝顕  顕定       頼顕    顕定 憲英 能憲 憲春 憲方 憲栄 憲将          朝房    朝宗   能憲
 ┃  ?        ┃     ┃     ┏━━┳━━┫  ?              ?  ┏━━┫    ?
満朝  氏定       氏定    定重    憲孝 房方 憲定 房方             氏朝 氏朝 氏憲   憲孝
 ┃  ┣━━┳━━┳━━┓     ?           ┃  ┣━━┳━━┳━━┳━━┓  ?  ┏━━╋━━┓
満定  持定 持朝 尊運 定頼    定頼       憲基 朝方 憲実 頼方 重方 清方 持房 憲秋 教朝 持房
 ┃     ┣━━┳━━┳━━┓  ┃           ?  ┣━━┓     ┏━━┫  ┃  ┃  ┝━━┓
持定     朝昌 定正 顕房 高救 朝藤           憲実 房朝 朝定    房定 房実 教房 憲定 朝定 政憲    
 ┃  ┏━━┫  ?  ┃  ┃        ┏━━┳━━┫  ?     ┏━━┳━━┫
成定  朝寧 朝良 朝良 政真 義同       憲忠 房顕 周清 房定    定実 定憲 定明
    ┣━━┓  ┝━━┓              ?  ┃  ┣━━┳━━┓(長尾氏)┣━━┓ 
    朝興 朝成 朝興 藤王丸            顕定 憲房 顕定 房能 定昌 能景 定兼 頼房
     ┃                 ?     ? ?  ┏━━┫     ?
          朝定                憲房    顕実 定実=女子 為景    政繁
                            ┝━━┓     ┃   ┏━━┫     ┃
                            憲寛 憲政    女子=晴景 景虎    長員
                      ┏━━┳━━┳━━┥        ┃
                      憲重 憲藤 憲景 上杉輝虎(謙信) 猿千代
                      ┣━━┓
                      憲国 憲武
                      ┣━━┳━━┓
                      憲益 憲儀 憲方
                            ┃
                            憲秀

(出羽米沢藩上杉家)            

※米沢藩の上杉家は山内上杉系の長尾上杉氏であるが、婚姻と養子縁組により八条上杉、扇谷上杉の血も引いている。

    謙信                     泰範(妻は上杉朝顕娘)
  ┌──┤                      ┃
 景虎 景勝=桂岩院(四辻公遠娘)        範政(妻は上杉氏定娘)        
     ┃(景勝側室、定勝生母)           ┃
    定勝                     範忠(上杉氏定外孫)
     ┣━━━┓                  ┃
    綱勝  富子                 義忠
     ?   ┃                   ┃
    綱憲  綱憲                 氏親
     ┣━━━┳━━━┳━━━┓          ┃
    吉憲  義周  勝周  豊子(黒田長貞妻)  義元
     ┣━━━┳━━━┓   ┃          ┃
    宗憲  宗房  重定  女子(秋月種美妻)  氏真
     ?           ┃          ┣━━━┓
    宗房          治憲         範以  女子(吉良義定妻)
     ?                          ┃
    重定                         吉良義弥(妻は今川範以娘)
     ┝━━━━━━━┳━━━┓              ┃
     治憲      勝煕  治広            吉良義冬
     ┝━━━┓   ┃                  ┃
     治広  顕孝  斉定                吉良義央(妻は上杉定勝娘の富子)
     ┣━━━┓                      ┃
     斉定  顕孝                    上杉綱憲(上杉定勝外孫)
     ┃ (綱勝の養子)
     斉憲
     ┃
     茂憲
     ┃
     憲章
     ┃
     隆憲
     ┃
     邦憲

上杉家家訓十六ヶ条
上杉謙信が残したといわれる家訓[1]。

一、心に物なき時は心広く体泰なり
一、心に我儘なき時は愛敬失わず
一、心に欲なき時は義理を行う
一、心に私なき時は疑うことなし
一、心に驕りなき時は人を救う
一、心に誤りなき時は人を畏れず
一、心に邪見なき時は人を育てる
一、心に貪りなき時は人に諂うことなし
一、心に怒りなき時は言葉和らかなり
一、心に堪忍ある時は事を調う
一、心に曇りなき時は心静かなり
一、心に勇ある時は悔やむことなし
一、心賎しからざる時は願好まず
一、心に孝行ある時は忠節厚し
一、心に自慢なき時は人の善を知り
一、心に迷いなき時は人を咎めず

2009年01月20日

ロックシーンの巨大産業化(1980年-1992年)

産業化したヘヴィメタルが派手な方向を目指す一方で、デュラン・デュランやユーリズミックス、ワム!といったバンド群もメタルシーン同様にMTV効果を最大限に活かした演出で市場を賑わし、第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンの旋風を起こす。

上記のとおり、1980年代の音楽シーンを語る上でさけて通れないのがMTVである。1981年、バグルスの 「ラジオ・スターの悲劇」で放送開始した音楽専門のケーブル放送チャンネルは、ロックシーンを産業化していき、巨大な影響力をもつようになっていく。MTVでインパクトのあるビデオクリップを流すことが、「売れる」要素になっていき、ビリー・アイドル、マイケル・ジャクソン、マドンナらがスーパースターとなっていった。

この頃の音楽業界は、膨大な枚数のCDセールスが相次ぐ空前の好景気であり、ライヴ規模も含めて市場は巨大化の一途を辿る。以前から活動してきたミュージシャン達もこの時流に乗り、クイーンやフィル・コリンズ主導のジェネシス、ブルース・スプリングスティーンらがスタジアム級の巨大公演を世界中で実現させ、U2の「ZOO TV」ツアーにおいてそれは頂点を迎える。
その流れは、チャリティー・ライヴ・イベントバンド・エイド開催など巨大慈善コンサート・ブームにも結実したが、ロックの商業的な肥大化は進む一方であった。

オルタナティブ・ロックの勃興(1991年-1994年)
MTVが派手な産業ロックを垂れ流す一方、有線放送チャートやインディーズチャンネルでは、1970年代のパンクから1980年代のニューウェーブの精神性に連なるオルタナティブ・ロックと呼ばれるサウンドが姿を現していた。この支持者たちは、メインストリームを闊歩するヘヴィ・メタルや市場の産業化を嫌悪し、独自のコミュニティを形成した。

その中から、アンダーグラウンドでの抜群の活動実績をもつR.E.M.がトップ・チャートでの最初の成功を獲得すると、次第にオルタナティヴ・シーンが活性化。その熱気を受け継ぐように1991年、ニルヴァーナがデビュー作『ネヴァーマインド - NEVERMIND - 』を全世界で大ヒットさせ、彼らの出身地シアトルを震源にグランジブームが全米を席巻し、既存のロック・シーンに大きな衝撃を与えた。そしてこのグランジの波に押し流された多くのメタルバンドは表舞台から消えていくこととなった。

また、ほぼ同時期に、ファンクやヒップホップのグルーヴ感を取り入れたミクスチャー・ロックバンドの代表格として注目されていたロサンゼルス出身のレッド・ホット・チリ・ペッパーズが、5thアルバム『ブラッド・シュガー・セックス・マジック - BLOOD SUGAR SEX MAGIK - 』(1991年)をリリースし大ヒットを記録。ヘヴィメタルに代わってこれらのオルタナティブ・ロックがロックのメインストリームとなっていく。

また、これらアメリカの動きとは別に、イギリスではアシッド、クラブ、ダンスミュージックなどが大きく盛況を見せ、ストーン・ローゼズやプライマル・スクリームといったそれらを音楽性に取り入れるロックバンドも多数登場。これらマッドチェスターは後のブリットポップへの下敷きとなるムーブメントを形成する。

ポスト・グランジの時代(1994年-2000年)
1994年のニルヴァーナのリーダーであったカート・コバーンの自殺により、グランジブームはオルタナティブ・ロック・ムーブメントに呑み込まれる形で終わりを迎える。しかしさらに多様性を増したオルタナティブ・シーンは、ドラマティックな楽曲展開で絶大な支持を得たスマッシング・パンプキンズらを中心に、フー・ファイターズやウィーザーのようなグランジを経過した上でのキャッチーなメロディを提示したバンドによって引き継がれていく。

一方のミクスチャー・ロックは、メタリカなどが切り開いたヘヴィサウンドと相まってコーンやレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンによりラップ・メタルに発展し、グランジによって刷新されたメタル・シーンではマリリン・マンソンやナイン・インチ・ネイルズなどの新世代が80年代の産業ロック・メタルとは違う新たなヘヴィ系ロックバンドとして人気を博した。
依然『オルタナティブ・ロック=型にはまらない非主流ロック』は一定の音楽性を示す用語ではないもの、1980年代のHR/HMとは違うロックのためのくくりとして、メジャーな1ジャンルへと転化していく。

1990年中頃になると、旧来のテクノミュージックとオルタナティブ・ロックとの融合を図ったプロディジーやケミカル・ブラザーズといったビッグ・ビートバンドや、テクノロジー技術の発達による電子音楽・サンプリング音楽の発展から、エレクトロニカやヒップホップをロックに取り入れたマッシヴ・アタックやポーティスヘッドなどのトリップホップアーティストも続々とシーンに登場し、主に欧州を中心に人気を得る。

また、アメリカでグリーン・デイやオフスプリングなどのポップ・パンクバンドが人気を博す一方、イギリスでは原点回帰的サウンドともいえる、オアシスやブラーに代表されるブリットポップムーブメントが発生した。そしてその後を追う形でレディオヘッドやトラヴィス、コールドプレイといった叙情的なバンドが登場し、2000年代も活躍を続けている。
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ロックンロール・リヴァイバル・ムーブメント(2001年以降)
世紀末にかけてのコーン、リンプ・ビズキット、リンキン・パークなどのアメリカでのブレイクによりニュー・メタルがロックの本流としての地位を確立するにつれて、そのようなヘヴィすぎるロックとは違った、旧来のストレートなロックンロールサウンドが見直されるようになる。そのような状況下、2001年にアルバム『イズ・ディス・イット』でデビューしたストロークスがヴェルヴェット・アンダーグラウンドなどの面影を残すガレージロック的なアプローチから注目を浴びることとなり、『ホワイト・ブラッド・セルズ』(2001年)でメジャーデビューしブルースロック的音楽性でジミー・ペイジなどから絶賛を受けたホワイト・ストライプスや、元クラッシュのミック・ジョーンズがプロデュースしたリバティーンズなどのバンドとともに『ロックンロール・リバイバル(又はガレージロック・リバイバル)』と名付けられ、現在(2006年)なお人気を博す。

また、その中からフランツ・フェルディナンドやアークティック・モンキーズといった、1980年代のニュー・ウェイヴやポストパンクを思わせる鋭角的でダンサブルなビートを取り入れた、ニュー・ウェイヴ・リバイバルやポストパンク・リバイバルと呼ばれるバンドたちも続々と台頭し、新たな勢力としてチャートを賑わせている。1980年代から1990年代へ移り変わる際のシーンの動向とは違い、2000年代においては1990年代のバンドも依然セールスを堅持しているのも特徴である。